こどもの最大の利益とは何か①

考えれば考えるほど、わからなくなる。

 

『親の愛がこどもを縛り付けないこと』

 

親が良かれと思ってやることは

本当に良いことなのか。

 

私は、何を「良かれと思って」いる???

 

 

 

私は、

こどもはこどもらしく。

とは考えていない。

 

こどもは、一人の人間であるし、

「子どもらしく」と言っている地点で

それは子どもに対して何かを望んでいる。

 

息子は、

私よりも

はるかに人間ができている。

 

私よりも「おとならしい」

 

子どもを未完成なもの、

大人が人間の完成形だと思うと

こういう表現になる。

 

 

私が息子を叱るとき、

そのほとんどが、

「今の日本社会の常識」から

外れている時であることに

最近気がついた。

 

そんな常識、

飛行機に乗って、2時間で、

一気に崩れる常識のために

息子の一瞬をHAPPYでないものにしてしまっている。

 

そして、それをしない勇気も

私は持ち合わせていない。

 

舜明はいつだって

今を生きているし、優しい。

思いやりもある。

 

私の方が

はるかに人間らしく生きていない。

 

 

iPadを自在に操る息子を

昭和初期から変わっていないであろう

学校教育の現場に通わせることに対し、

 

私は不安をもっている。

 

変わる気はないのか。

変える気がないのか。

 

前に何かで見たけれど、

大学生のなりたい職業のトップが「銀行員」だったらしい。

 

「お金」の概念が変わり始めているこの時代に
(現金なんて、持ち歩かない事の方が普通になりゆく時代に)

 

すごく残念だった。

 

来年小学校に入学する息子が

大学を卒業するであろう年齢の22歳になるころに

「銀行員」は「安定の職業」だろうか???

 

それはないだろう。。。と思う私にとって

息子に公教育を受けさせることは

結構な苦痛を伴っている。

 

公教育は

「そういう」教育を息子にするのだ。

 

今日の今日まで

結構真剣に育ててきた。

 

「息子を思って」。

 

完璧じゃないことが多いけれど、

それでも、息子の「最大の幸せ」を考えて。

 

それでも、彼は

私が思うよりも自由で賢く、優しいので

私が考える「幸せ」よりも

「幸せ」を私に感じさせてくれる。

 

のびのびと自由に

好奇心と向上心をもって、

「今」を生きてくれている。

 

その彼に

「大量生産」の価値観を

植え付けられる苦しさがある。

 

「こどもはこどもらしく」

 

「言われたことをやっていれさえいればいい」

 

という世界に飛び込ませることに

とても苦痛を感じている。

 

舜明は、公教育に適応するだろう。

きっと疑いを持たず、楽しめる。

 

だけど、それを「もったいない」と思うことは

親のエゴだろうか?

 

 

「自分のお子さんに期待しすぎてない?」

「親のエゴだよ」

 

と言われたけれど、

 

息子の将来のHAPPYを考えることは

親のエゴだろうか?

 

孟母は三回、住居を引っ越しているけれど

それは「親のエゴ」だろうか?

 

舜明は、しっかり生きている。

彼に必要なのは、教育でもなく、矯正でもなく

「より良い、快適な環境」であると考えている。

 

のびのび、このままの感性で生きていけたら

そのままHAPPYに暮らせるのではないか、と思う。

 

彼に彼を「(今の言葉でいう)教育」が必要とは思えない。

良き見本である大人たち、友人たちが必要で

それを望みたいけれど、それは私のエゴなのか?

 

こどもの最大の利益とは、何だろう?

 

もう少し、熟考していきたいと思います。