差別と逆差別

いつも思うんだけどさ、
「差別」の話をするとき、
いわゆる「逆差別」について
わざわざ言ってくる人は
どういうつもりで言ってるんだろうか。
 
 
例えば、
「黒人差別」について話しているときに
ある白人男性が
「僕はアフリカ移住していたのですが
その時に、逆差別にあいました。
白人というだけで、罵声を浴びせられたり
時には暴力を振るわれたりしたのです。
私は差別主義者ではなく、みんなおんなじ人間。
というスタンスなのに。。。」
 
 
という人が出てくる。
必ず。
 
 
その人って、どういう心境で言ってるんだろうか。
 
感のいい人はもうおわかりだと思いますが
在日コリアンへの差別やうちなーんちゅへの差別の話を
していると、必ず、必ず、
そういう日本人がでてきます。
そして、「良き」在日コリアンやうちなーんちゅが
出てくるのを待ちます。
 
「○○さんは違うもんね、私たちのことをわかってる」
「○○さんは差別なんてしないもんね」
なーんて、言われたいのでしょうか?
もっとヒドイ場合は
「○○さんは、立派なうちなーんちゅだよ!」
とまで言われるのを期待しているのか???
(そして、言ってしまううちなーんちゅがいる!)
 
 
謎なんです。
 
 
その一言、その一人がでてきたことによって
その場は「シーン」となります。
 
「差別問題」から目を背けたい、
私は無実だ!といいたいマジョリティによって、
またもやマイノリティが言論を封じられる。
 
それ自体が「差別を手助けしている行為」であり
「差別を助長している行為」であることに
なんら気がつかない「良きマジョリティ」
 
「私は差別なんてしたことないし、
 知らないし、そんなことないし、
 人類皆兄弟、いちゃりばちょーでーだよ」
 
 
障害者差別で例えると
わかりやすくなるかな?
この発言の意味不明さに。
 
 
「耳が聞こえないことでこんなことがあった」
「目が見えないことでこんなことがあった」
「知的障害を持ってるということでこんな体験をした」
「でも、私は『あなたは耳が聞こえるでしょ』
『目が見えるでしょ』と言われ、そんなことを言われるなんて、僕はそんなつもりで生きていないのに。
障害者も健常者も平等で生きる権利があると思って
この会にも参加してるんです。
みんなちがってみんないい、ですよね」
 
 
会場はきっと、シーンとなるのではないでしょうか?
こんなことを発言する人が何を考えてるのか
私はわからないんですけど
「差別」うんぬんの話をすると、必ず、必ず
こういう人、いるんです。
 
 
謎なんです。